2018年 08月 21日
運命の衝撃 (ver 0.3.3) |
世の中には上流の公園というものがあり、またそれを自らの住まいにする上流の放浪者がいる。ヴァランスはそんなふうに考えていた、というよりはそういうふうに感じていたものだが、それまでいた世界からこぼれ落ちたとき、いよいよ彼の足が向けられたのは手近なマディソン・スクエア公園なのだった。
未熟で刺々しい女学生――それもかなり古めかしい――のような若い五月が、芽吹きはじめた木々のあいだから手加減もせず肌を刺す。ヴァランスはコートのボタンを閉じて最後の煙草に火をつけると、ベンチに腰を下ろした。
最後の自動車旅行が自転車の警官に止められてあえなく終わり、しかもそれで最後の千ドルの、そのまた最後の百ドルを支払う羽目になったことを三分ほど軽く悔やんだ。それから全部のポケットを確かめてみたが、1ペニーすらも見つけることができない。
彼は今朝アパートに見切りをつけた。家具はすでに借金のかたで失い、服も着ているもの以外は未払い賃金の代わりに下男に下げ渡している。
こうして座っている彼には、もはや街中のどこをみても、ベッドも、炙ったロブスターも、路面電車の運賃も、ボタン穴のカーネーションですら、友人にたかるか騙し取るかでもしないかぎりどうにもならない。そういうわけで、彼は公園を選んだのだ。
このようなことになったのは、彼がおじに勘当され、それまで気前よくもらっていた手当を全く受け取れなくなってしまったからだ。それはどういうことなのかといえば、甥が例の娘のことでおじに背いたからだ(その娘は今回の話には出てこないので、男女の事細かなことまで知りたがる読者に向けては、これ以上読むところはないとあらかじめ言っておこう)。
とにかくそこで、かつては後継者として寵愛を受けていた家系の異なる別の甥が出てくる。この男は美点も将来性もなく、ずいぶん前に苦境に陥り行方をくらましていた。それを今どうにか見つけ出し、以前の地位に戻してやり直させようということになった。そうなるとヴァランスはルシファーが堕天するかのごとく壮大に転落し、この小さな公園でみすぼらしい亡霊たちの仲間入りというわけである。
固いベンチに腰掛けた彼は背を後ろにそらし、笑いながら煙草の煙を木の下枝に吹きかけた。人生のあらゆるしがらみが突如として断ち切られたことは、彼に自由と高揚をもたらし、喜びと満足で溢れんばかりだった。その感覚はまさに気球乗りが係留索を断ち切って浮かび上がるときのものだった。
時刻はほぼ十時。ベンチを温めるような人もそれほどは見当たらなかった。秋冷えには頑固に抵抗する公園の住人だったが、春先の寒さに対しては、なかなか持ち場につこうとしないのだ。
そのとき、噴水の近くに座っていた人物が立ち上がり、ヴァランスに近づいてきて隣に座った。若いようにも老いているようにも見える。安宿のかび臭さが染み付き、カミソリも櫛も素通りしたような風采、呑んだものがボトル詰めされ悪魔の封で納まっているていだった。彼はタバコの火を求めたが、それは公園のベンチ利用者たちの挨拶のようなもので、そこから話が始まった。
「あんたは、ここの馴染みじゃないね」彼はヴァランスに言った。「仕立てた服を着てるくらいだ、わかるさ。通りすがりにほんの一息ついてるだけってね。ちょっと俺の話を聞いてもらってもいいかい? しばらく誰かと一緒にいてほしいんだよ。恐ろしくて――そう、恐ろしいんだ。さっきもあそこの二、三人とその話をしたんだがね。あいつら俺が狂ってるとしか思ってねえんだ。それで――いや、頼むから話をさせてくれ――今日、俺が口にしたものといえば、プレッツェルがふたかけとリンゴがひとつだった。それが、明日になれば三百万の相続をして……そうなりゃ、あっちに見える自動車が取り囲んだレストランだって、俺にとっては手軽な食事処になっちまうってわけだ。信じちゃくれんだろうけどな?」
「些細な困難もなければそうだったろうけど」ヴァランスは笑って言った。「きのう僕はあそこで昼食を食べたんだ。それが今夜は五セントのコーヒーを飲むこともできなくなってるからね」
「あんたは俺らの仲間には見えなかったよ。まあ、そういうこともあるんだろうな。俺も数年前はずいぶん豪勢にやってたもんさ。いったい何をしくじってそんなことになったんだい?」
「僕は、あー、つまり仕事をなくしてね」ヴァランスは言った。
「混じり気なしの地獄だからな、この街は」相手は応じた。「ある日はシナの陶磁器で飯を食ってたのに、次の日はシナ料理屋でチャプスイを食ってるってこともあらあな。俺だってもう余計なくらい不運を味わってきたよ。この五年は乞食よりかマシといった具合だった。何ひとつ不自由することなく贅沢三昧できる身分の生まれだったんだがね。だから――もう何も気にせず話しちまうが――とにかく話さないではいられねえんだよ、なにせ恐ろしくて――とにかく恐ろしいからな。俺の名はアイドってんだ。リバーサイド・ドライブの百万長者のひとり、ポールディングじいさんが俺のおじきだなんて、あんた、思いもしないだろう? だがそうなんだ。かつて俺はあの屋敷に住んで、望むだけ金を使えたこともあったのさ。そういや、あんたさっき一杯酌み交わす金もねえって言ってたな――えぇと――あんた、名は――」(※訳注:「シナ」は原文で"China"。「秦」が語源とされる。日本語においては歴史的経緯からもはや石原慎太郎くらいしか使わない望ましからぬ呼称だが、時代背景と発語者の品性を考慮して使用した。当時は清朝末期、中華民国の建国前である。ただし「中国」という自意識と呼称は古代からあったらしいが)
「ドウソンだ」ヴァランスは言った。「無一文さ、残念ながら言ったとおりの体たらくでね」
「俺はこの一週間ばかりディヴィジョン・ストリートの地下石炭庫に寝泊まりしてたんだ」アイドは言った。「まばたきモリスなんて呼ばれてるペテン師と一緒にさ。他に行き場がなかったもんでね。それできょう俺がちょっと出ていたとき、ポケットに書類をたくさん突っ込んだやつが俺を訪ねてきててな。てっきり私服刑事だと思ったんで、暗くなるまで戻らなかった。そしたら奴は置き手紙をしていった。それがな――ドウソン、有名なダウンタウンの弁護士ミードからだったんだ。アン・ストリートで看板を見たことがあったな。ポールディングが俺にまた放蕩者の甥の役をさせたいってんだぜ――つまり戻ってきてまた相続人として金を使いまくれってね。明日の十時に弁護士事務所に行って昔馴染みの靴を履きなおしゃ――なんと三百万の相続だ、ドウソン、それに毎年一万ドルがポケットに転がり込む。だから――恐ろしくなっちまって――恐ろしくてたまらねえんだ」(訳注:当時の300万ドルはおよそ100億円、1万ドルは3千万円といったところ)
浮浪者は跳ねるように立ち上がり、震える両手を頭の上に差し上げた。彼は息を呑み、ヒステリックに呻いた。ヴァランスは彼の腕を掴み、無理やりベンチに座らせた。
「おい落ち着け!」彼は苛立ちを込めたような口調で命じた。「それじゃまるで財産をなくしたみたいに見えるぞ、そうじゃなくて手に入れる側じゃないか。いったい何が恐ろしいっていうんだ?」
アイドはベンチに座って縮こまり震えていた。彼はヴァランスの袖にしがみつき離さず、勘当されたばかりの男は、何らかの奇妙な恐怖がためにもう一方の男の額ににじみ出る汗をブロードウェイの薄暗い明かりの下でも見ることができた。
「だってよ、朝が来る前に俺の身に何か起きるんじゃないかと不安なんだ。それが何なのかはわからないが――金が手に入るのを邪魔するような何かがさ。木が倒れてくるのも怖いし――辻馬車に轢かれるのだって怖い、屋根の上から石が落ちてきたり……とにかく何かだ。今までは何も恐ろしいなんて思っちゃいなかったんだ。この公園で数え切れん夜を彫刻みたいにどっしりと構えてたよ、次の朝めしだってどうか知れねえのにさ。だが今は違う。俺はカネが好きなんだ、ドウソン――それが指からあふれるようになりゃあ神様みたいに幸せな気持ちになれるし、そうなりゃ、どいつもこいつも俺にペコペコするようになるよな、音楽や、花や、いい着物がそこらにあってさ。長いことそんなものに縁がないとわかってたうちは、気にもならなかったんだ。わりあい幸せにやってたんだぜ、腹をすかせて座っていても、噴水の音を聞いてたり通りを馬車が走ってくのを眺めているくらいで。それだってのに、また大金が自分の手の届くところにくるかもしれねえことになって――それも確実だと――十二時間待つってだけのことが耐えられないんだ、ドウソン――辛抱できないんだよ。ざっと五十くらい何か俺の身に起きるんじゃないか――目が見えなくなるとか――心臓発作とか――この世の終わりが来るかも――」
アイドは金切り声を上げながら跳ね立ち上がった。他のベンチにいる者たちが気づいて、様子をうかがいはじめた。ヴァランスは彼の腕を取った。
「来いよ、少し歩こう」彼はなだめるように言った。「それでちょっと落ち着くんだ。興奮したり警戒したりする必要はないじゃないか。何も起こったりしないさ。いつもと同じ夜だよ」
「そうだな」アイドは言った。「一緒にいてくれよ、ドウソン――仲間だろ。しばらく一緒に歩いてくれ。こんなになったのは初めてなんだよ、今までさんざんひどい目も喰らったってのに。なんとか食えるもののあてはないかね、大将? もうくたびれ果てちまって、物乞いしようにもできないんだ」
ヴァランスは相棒を連れて人通りもほとんどない五番街を行き、三十何丁目かのところで西に曲がりブロードウェイへと向かった。「数分ここで待っててくれ」彼はそう言ってアイドを静かな暗がりに残した。彼は馴染みのホテルに入ると、まるで昨日までと変わらない態度でバーに立ち寄った。
「外に気の毒なやつがいるんだよ、ジミー」彼はバーテンダーに言った。「腹が減ってると言うし、たしかにそんな感じでね。といって金を恵んでもどうなるかわかりゃしない。サンドイッチを一つか二つ作ってやってくれないか。無駄にはさせないよ」
「もちろんですとも、ヴァランスさん」バーテンダーは言った。「そういう連中がみんな嘘つきってことはないでしょう。誰かが腹をすかせているのを見てるのはいい気分じゃないですからね」
彼は無償のランチを十分なほどナプキンに包んでくれた。ヴァランスがそれを持って相棒のもとに戻ると、アイドは猛然と食べ始めた。「こんなにうまいもんを恵んでもらったってのは、今年になって初めてだ」彼は言った。「食べないのかね、ドウソン?」
「腹は減ってないからね――気にするなよ」ヴァランスは言った。
「よし、公園に戻ろうぜ」アイドが言った。あそこなら警官も絡んでこないしな。このハムやら残りは包んでおいて朝めしにしようじゃねえか。俺もこれ以上は食えないし、腹を壊したらかなわないからな。もし今夜腹痛とか何かになって金に手を付けられねえなんてことになったらことだぜ! 弁護士に会うにはまだ十一時間か。俺と一緒にいてくれるだろ、ドウソン? 他にもなにか起きるかもしれん。あんた他に行くところはないんだよな?」
「ないよ」ヴァランスは言った。「今夜はどこにも行かない。一緒にベンチにいるよ」
「ずいぶん落ち着いてるな」アイドが言った。「さっき言ってたのは本当なのかね。いい仕事にありついてたのがいきなりで駄目になったってんなら、髪をかきむしったりしそうなもんだが」
「たしかさっきも指摘したはずだが」ヴァランスは笑いながら言った。「次の日にとてつもない財産が手に入るというような人間は、すっかり心穏やかで悠然としているんじゃないかな」
「おかしなもんだ」アイドは悟りすましたように、「人間ってのは、とかくそんなもんなんだな。これがあんたのベンチだ、ドウソン。すぐ隣が俺。ここなら灯りもまぶしくないぜ。なあドウソン、俺が家に戻ったら、じいさんから誰かへの紹介状を書かせるよ。今夜はずいぶん世話になったからさ。もしあんたに会えなかったら、この夜をやり過ごせなかったと思うんだ」
「ありがたいね」ヴァランスは言った。「眠るときは横になるのかな、それとも腰掛けたまま?」
それから何時間のあいだ、ヴァランスはほとんど瞬きもせずに木々の枝越しに星を見つめ、南のアスファルトの舗道から馬の蹄の音が鋭く響くのを聞いていた。彼の頭脳は明晰だったが、感覚は鈍麻し、すべての感情が死に絶えたかのようだった。彼はなんの後悔も、恐怖も、苦痛や不快も感じなかった。例の娘のことを考えたときも、そのとき彼が眺めていた遠く離れた星のひとつの住人というくらいにしか感じられなかった。彼は相棒の滑稽な振る舞いを思い返して少し微笑みはしたが、それも愉快に思う感情から出たものではなかった。ほどなく牛乳配達の馬車の一団が町に轟音を響かせて行進してゆく。ヴァランスは寝心地の悪いベンチで深い眠りについた。
翌朝の十時に、二人はアン・ストリートにあるミード弁護士の事務所の戸口に立った。
時間が近づくにつれアイドの神経はひどく震えるばかりで、ヴァランスとしても、それほどまで恐れている危険の中に彼を残して立ち去ることができなかった。
彼らが事務所に入ると、ミード弁護士は驚いた様子で彼らを見た。ヴァランスとは旧知の間柄なのだ。彼は挨拶を済ませると、降りかからんとする危機に怯え、顔面蒼白で手足を震わせながら立っているアイドに向き直った。
「昨晩二通目の手紙をあなたのもとにお出ししたのですよ、アイドさん」彼は言った。「今朝知ったのですが、あなたはお留守で受け取っていただけなかったのですね。実はポールディング氏があなたに戻っていただく件について、再考をされたということをお知らせする内容でした。申し出を取り消されることをお決めになり――つまりあなたと彼との間柄は以前の通り何の変更もないということを納得してもらいたい、というご希望なのです」
アイドの震えはぴたりと収まった。顔色も戻り、背筋もまっすぐ伸びた。顎を半インチほど前に突き出して、瞳に光が映った。潰れた帽子を片手でかぶり、もう片方の手は指をまっすぐ弁護士に向け、彼は深く息を吸って嘲るように笑った。
「ポールディングのじじいにくたばっちまえと伝えな」彼は大きくはっきり言って、きびすを返すと威勢のよいしっかりとした足取りで事務所を出ていった。
ミード弁護士はヴァランスに向き直ると、微笑んだ。
「おいでいただいてよかった」彼は愛想よく言った。「おじ上が、すぐに戻ってほしいと仰せです。短気を起こされた例の件もご了承のうえで、すべてこれまで通りに、というご希望――おい、アダムズ!」
すべて言い終わらないうちにミード弁護士が秘書を呼び叫んだ。
「水を一杯持ってきてくれ――ヴァランスさんが卒倒した」
("The Shocks of Doom" in "The Voice of the City" by O. Henry)
Last Update: 2019.5.30
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by islecape
| 2018-08-21 17:17
| O. ヘンリー